蕗谷虹児記念館~内井昭蔵の建築

蕗谷虹児(フキヤコウジ)を知っていますか?童謡・抒情詩「花嫁人形」は聞いた事はありますか?羽越本線新発田駅から徒歩15分程の位置に「蕗谷虹児記念館」は佇んでいた。

蕗谷虹児は知らなくても「花嫁人形」の歌詞「金襴緞子の 帯しめながら 花嫁御寮は なぜ泣くのだろ、、、」を知っているだろう。1924年(大正13年)、当時の未婚女性達に人気のあった雑誌「令女界」の2月号に詩画として掲載された事で蕗谷虹児の代表作となる。

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 メモリアルホールに展示されている「花嫁」の右目には一粒の涙が。
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詩画に書かれた詩に対して、バイオリニストで作曲家だった杉山長谷夫が作曲した「花嫁人形」は童謡、抒情歌として万人に知られる事になる。1968年(昭和43年)の「花嫁」(70歳作)は虹児12歳の時に、27歳の若さで死別した美しい母への思いが投影されている。

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「蕗谷虹児記念館」は生まれ故郷の新潟県新発田市に1987年(昭和62年)に開館している。蕗谷家から寄贈された800点余りの原画と直筆原稿、書籍、印刷物等3000余点を基に「虹児の抒情世界を具現したい」との思いから寄付と市助成金等の基金で建設された。

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設計は隣接する「新発田市民文化会館(1980年竣工)」を担当した内井昭蔵に依頼されて、「虹児の抒情世界を具現したい」を設計理念として完成している。駐車場から並び見える「新発田市民文化会館」の外観とは異なりビザンチン様式を思わせる外観は印象的である。

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7年前に完成した隣接する「新発田市民文化会館」の鉄筋コンクリート造の打放し壁に施された横目地と合わせる様に、記念館ではタイルをボーダーとして厳格に割り付け貼られている。タイルは縦長の磁器質タイルで幅木風役物タイル(特注品)?を等間隔で貼っている。

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外壁を印象付ける下側の突出部を直角三角形で造られたタイルは開口部も巻き込み四周に貼り巡らされている。突出したコンクリートの開口部は換気扇フードとしてデザインされている。内井の建築作品としては小ぶりではあるが、細部にわたり密度の濃い記念館である。

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外部は基礎の立ち上がり部分を玉砂利コンクリート洗い出し、鉄筋コンクリート造の打放し壁にタイルをボーダーに貼り、屋根は銅板平葺き・菱葺きが併用され軒先まで巻き込まれている。樹木に囲まれて建つ記念館の中で、蕗谷虹児の叙情世界の具現化が体感出来る。

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建築の原点は祖父・父共に建築家であり、ハリストス教会関連の設計に従事していた事が影響し、「幼少期からニコライ堂で多くを過ごし、教会の持つ空間と祈りとの形の関係が強く印象付けられた」と語っている。自身も聖名「ガウリイル」を持つ正教徒である。

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北側に設置された切妻屋根と鉄筋コンクリート造の跳ね出し台で挟まれた両開きドアは搬入用の扉であろうか?跳ね出し台はトラック荷台レベルの高さであり、3800点余りの展示作品の入れ換え時期に活躍する場であるが、内部からは展示品で姿が隠されている。

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切妻屋根の真上には花びらをモチーフにしたフィックス窓である。形状の違いはあるが今井兼次の碌山美術館や村野藤吾の世界平和記念堂等に続くデザイン窓であり、タイルの選択や張り方等に対する拘りも独自の建築感から引き継がれた早稲田の伝統だろうか?

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蕗谷虹児は父19歳、母15歳で若くして結婚した両親の元、1898年12月に新発田市で生まれた。貧困の中で絵を学び、竹久夢二を訪ねた事から紹介を得て雑誌の挿絵画家としてデビューを果たす。その後人気作家の小説の挿絵や少女雑誌等の表紙・挿絵が評判となり人気の地位を確立するが、その生活に満足せずにフランス・パリへ留学する事になる。苦学の末にパリでも公募展サロン、サロン・ドートンヌに連続入選するなど評価を高めるが家庭の事情により5年に及ぶ留学生活に終止符を打ち帰国、再び挿絵画家として仕事を始めパリ仕込みの作風で一世を風靡する事になる。留学当時パリ画壇で既に活躍していた一回り年上の藤田嗣治(1886~1968)との交流もあり、もし帰国する事無くパリで留学生活を継続していたら、蕗谷虹児は挿絵画家としての評価だけでなく、画家としての地位と評価を確立していただろうか?扉を開き、延床面積300㎡の小さな記念館に展示された作品で確かめる事が出来るだろう。

設計にあたり内井は蕗谷虹児の生涯を読み込んだと言われている。貧困の生活、若くして母との死別、パリ留学も事情により志半ばで帰国等様々な心情を踏まえた上で、「ビザンチン様式のドームのあるロシア正教会風が蕗谷虹児そのままを表現できる建築だと考えた。」と述べている。落成式の時、来賓として参列した蕗谷虹児の夫人が建物を見上げて、「これは蕗谷虹児そのものです。」と言った言葉に建築家・内井昭蔵の「建築」を読み解く凄さが垣間見える。2002年8月69歳で死去、内井昭蔵の新たな建築はもう見る事は出来ない。

設計者である内井昭蔵は祖父、父共に建築家の家庭環境の中、1933年2月に神田ニコライ堂で生まれた。1956年早稲田大学理工学部建築学科を卒業し大学院に進学、1958年に修士課程を修了し菊竹清訓建築設計事務所に入所、1967年に独立し内井昭蔵建築設計事務所を設立する。
 独立直後に、東急田園都市線青葉駅近郊の小高い丘の北側傾斜地2ヶ所に集合住宅の設計を委ねられる。これが出世作となる「桜台ビレジ(1969年)」と「桜台コートビレジ(1970年)」であり、「桜台コートビレジ」は1971年(昭和45年)の日本建築学会賞を受賞している。
 建築は個人住宅、集合住宅、幼稚園から大学、神社・教会、美術館、記念館等に携わり、代表作は上記の他「宮崎台ビレジ」「身延山久遠寺宝殿」「東京YMCA野辺山高原センター」「新発田市民文化会館・公民館」「横浜市立本町小学校」「世田谷美術館」「高円宮邸」「浦添市美術館」「明治学院白金再開発計画」「御所」「国際日本文化研究センター」「滋賀県立大学」「衆議院議長公邸」「元麻布ヒルズ」「東京大学豊島国際学生宿舎」「日本基督教団信濃町教会」「エンゼル幼稚園」等多数である。
 受賞歴は日本建築学会賞の他、第3回吉田五十八賞、第24回レイノルズ賞、第45回日本芸術院賞、勲三等旭日綬賞等多数。京都大学、滋賀県立大学で教授として教鞭をとる。2002年8月逝去、埋葬式は幼少期を過ごした神田ニコライ堂で行われ「ガウリイル」は天に召された。

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